近道したい

高校生が日々の不満やストレス、日常のちょっとした出来事、ふと思い付いた事などを綴っていきます。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?を読んだ 10/12追記

このブログを見て気付いたが、僕はこの時期になると本を読みたくなるらしい。

前回本の記事を去年の秋に書いて、それ以降本の記事は書かずいた。

ブログに感想を書いていなかったからと言って、本を読んでないわけではなかった、と言う事ではない。

去年の秋に色々と読んで、それ以降殆ど本を読まなかった。

今年読んだのは、夏目漱石の「我輩は猫である」とトマス・ハリスの「羊たちの沈黙(上)」あとアイザック・アジモフの「ファウンデーション」ぐらいだ。しかも我輩は猫であるは面白く感じなくて100何ページかで読むのをやめて放置したし、羊たちの沈黙もまだ下巻を読んでいない。

ファウンデーションにいたっては内容が濃すぎてめんどくさくなって80ページ辺りで放置状態である。

読書家達には怒られるかもしれないが、僕は読めない時には本当に読めない。

自分好みの小説だと思ったのだが、その時はどれもピンとこなかった。

 

しかしこの秋、僕はまた本にハマりだした。

(去年本にハマった時、勢いで小説擬きをちょっと書いたりしたのだが、今年もやってしまった。去年も書いてたのはついさっき気がついた。)

小説擬きを書いたのは今回ハマった本にハマる前だから、僕の中の本ブーム再熱の予兆はその時からあったのだろう。

読書の秋というのも侮れないものだ。

 

そのハマった本というのが、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」だ。

一昨日ふらっと寄った本屋で、休み時間にでも読むかと思って買ったこの本だが(上に書いた三作を読み切っていないくせにちゃっかり新しい本に手を出した事については許してほしい)、昨日と今日の休み時間でほぼ読み切ってしまった。

積ん読癖がつき始めたのでまた同じ二の舞を踏むかと警戒していたがそんな事はなかった、面白かった。

僕は普通本をゆっくり読むのが好きだから、ゆっくり読みつつ、1ページを2往復したりして色々と考えながら読み進めるのが常だった。

しかしこの本に関しては、面白すぎてページをめくる欲求を抑えられなかった。

普通にパラパラ読んでいくのもこれはこれで良いものだと気が付いた。(今更)

これを機に熟読癖を直そうかなと思う。飽き性なくせにゆっくり読むから本を積んでしまうのかもしれない。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はSF小説で、科学が発展した世界の話だ。

地球は核戦争で荒廃していて、人類の殆どは火星に移っている。

そんな地球に残った人間の中の一人である賞金稼ぎの男と、その標的である、火星から逃げてきたアンドロイド(奴隷)達の話だ。

人工物であるアンドロイド達も、人間臭いロボットなのか、それとも人間とは思考回路がかけ離れている、ただのロボットなのか、分からない様な存在で奇妙だが、この世界の人間も、核戦争の影響でおかしくなっていて、精神異常者みたいなのばっかだし、読んでいる途中で、人間がアンドロイドに見える事すらある。

世界観も独特で面白い。題名の「電気羊」は、生物が殆ど死に絶え、生きた本物の動物を持つ事がステータスとされる世界で作られた、限りなく本物の羊に近づけたロボットの羊のことだ。

色々なこの世界独自の設定があって、奇妙で中毒性のあるフィリップ・K・ディックの世界の虜になってしまった。

 

あと20ページほどでこの小説を読み終わってしまうのだが、一度読み切っても、何度でも読めそうな程面白い作品だと思った。

因みに好きなキャラはイジドア。

 

この小説を原作にした「ブレードランナー」と言う映画が1982年に公開されているのだが、その続編が去年の今頃公開されていたらしい。

今度両方とも観てみようと思う。

 

10/12日追記

 

読み終わった。一回読んだだけじゃ内容を理解できたとは言い難い。読み返す度に様々な角度から発見があるだろう。

後書きに書いてあったが、作者が言うには

 

「わたしにとってこの作品は、人間とは何かという疑問に対する初期の結論を述べたものである。......あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、我々を岩や木切れや金属から区別しているものであり、それは我々がどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない」

 

という事らしい。感情移入が人間の最も大切な能力というのはわかる気がした。

正直、最近僕はずっと一人でいるから、感情移入能力が乏しくなっている事を感じる。

他人なんてどうでもいいと言うスタンスが板についてきてしまったので、人に危害を加えたり約束を破ったりしても、前ほど罪悪感を感じないんじゃないだろうか。不登校になってから心が冷えていて、正直それは高校に通っている今でも続いているような感じがする。それともこれが大人になっていくという事なんだろうか。

 

昔はそのような事をすると信頼とか、自分の善性とかを色々と失う気がして怖かったけど、今は失うものがそれ程無い様な感覚で、何かを頼まれても、自分が疲れるなら相手が困っていてもやらなかったりする事への抵抗が薄い。

 

後書きに書いてあったアンガス・テイラーという人の書評にギクリとさせられた。

 

「ディックのアンドロイドと言う隠喩の中核をなすものは、機械的な行動パターンに浸された人間ーー模造的な人間である。大多数のSFにおけるアンドロイドは、迫害された人間、人種的あるいは経済的に差別された人間である事がはっきりしている。そして、その迫害や差別のよってきたる原因は外面的なものであり、なんらかの直接の外的行動によって修正する事ができる。......しかし、ディックは、それと全く違った意味を、アンドロイドに与えている。ディックにとって、アンドロイドとは、内面的に阻害された人間ーーつまり、分裂病その他なんに限らず、“現実”の世界(人間的な関わり合いと感じ方の世界)に接触できなくて、うちに閉じこもり、機械的な生活を送っている人間ーーの象徴なのだ。......この新しい観点に立てば、アンドロイドが天真爛漫さと悪意とを同時に持ち合わせ、自分の正体を知っている時もあり、ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる」

 

読んでいた時、アンドロイドは自分の事しか考えないサイコパスな奴等だと思って嫌いだった。

しかし僕こそ、そんなアンドロイド性を持っているんじゃないかと考え直した。

 

アンドロイドのレイチェルの下りなど、この小説を読んで僕が感じた事を例えで表現しようと色々書いてみたのだが、どうにもしっくりこなかった。それは僕の本質を見抜き具体化する力が足りないからかも知れないが、この小説特有の設定だからこそ生きる教訓でもあると思った。

 

なんだかんだ言って結局、創作として面白かったんだと思う。

 

※最後に

一番驚いた事は、この小説が1968年に刊行されたという事だ。仰天した。

読んでいて殆ど古臭さを感じなかった。

もっと最近の小説だと思っていた。